【阿波おどり・歴史】阿波おどり解体新書(ルビ:ターヘルアナトミア)~序~

【阿波おどり・歴史】阿波おどり解体新書(ルビ:ターヘルアナトミア)~序~

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徳島県発祥の伝統芸能、そして日本三大盆踊りの一つ『阿波おどり』。その歴史は400年にものぼり、開催期間の来場人数は約130万人。期間中の徳島は阿波おどり一色に染まる。

しかしそんな阿波おどりも、昨年は新型コロナウイルスの影響で中止。今年は開催を予定している地域もあるものの、規模の縮小と大幅な様式変更が避けられない状態だ。現代における阿波おどり最大の危機。先人たちはどのように踊りの文化を継承してきたのか。2021年夏、阿波おどり400年の歴史を紐解く。

起源

『三好記 下巻』

阿波おどりの起源には所説あるが、一つの有力な説として戦国末期に勝瑞城で催されていた風流踊りがあげられる。もともと風流とは装飾や服装で人を驚かすような趣向を凝らすことであったが、やがて音曲や歌舞へ発展。武家や公家の間で流行したのち、次第に町衆の踊りとなり一大ムーブメントとなる。そうしたなかで京都の風流おどりが勝瑞城で披露され、当時の城主・十河存保※1(そごう・まさやす/三好長治の弟)が絶賛。近隣の人々にも観賞することを許可したため、阿波の国にも風流踊りが広がっていった。『三好記 下巻』の六「風流之事」(1578年)では、その鮮烈な印象がつづられている。

※1 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三好長慶の弟・三好義賢の次男として生まれ、1561年に叔父で讃岐国十河城主の十河一存が急死したため、養子となって家督を継ぐ。三好氏が織田信長と敵対したとき、信長と争うも、四国平定を目指す土佐国の長宗我部元親の勢力が伸びてくるとそれに対抗するため信長へ降伏。1577年、阿波国で実兄の三好長治が長宗我部元親や異父兄の細川真之らによって殺害されると、1578年に勝瑞城に入って阿波における三好家の勢力挽回に務めた。信長の援助を受けていたこともあって次第に戦況は存保有利となり、1582年に細川真之に勝利。同じ年に信長が四国征伐を計画した際は讃岐や阿波で奮戦。しかし、本能寺の変で信長が死去すると勢力が大きく後退。阿波に攻め込んできた長宗我部軍と中富川の戦いに敗北して阿波を放棄し、讃岐に撤退した。その後、豊臣秀吉の四国征伐に協力し、旧領である讃岐十河3万石を秀吉より与えられて大名として復帰した。

そこから変化があったのは蜂須賀家政の時代。1585年に阿波を領有するとすぐさま徳島城の築城に着手。勝瑞城下で暮らしていた商家に呼びかけ徳島移住を促したことで、風流踊りも徳島を中心に発展していくようになったとされている。

そこで紹介しておきたいのが、『春日祭記』だ。その冒頭には慶安3年(1650年)の9月17日に行われた『春日神社』の祭礼にて、各町の氏子たちが組を作って盛大に風流踊り(組踊り)で競演したと紹介されている。各町内ともに衣裳は華美で踊り子の数も多く、かなりの経費をかけていたとされている。さらにこれらだけの大集団で町中に繰り出し、踊りを披露するということになれば、その練習に要する日数も相当なものと思われ、今の阿波おどりに通じる文化がこの時代から生まれていた。

この時代人気を博した組踊りだが、参加するには相当な費用と人手が必要だったとされ、中層以下の町人は見る阿呆もしくはぞめき踊り※2に参加するしかなかった。

※2 ぞめき踊り
「ぞめき」とは「騒き」と書き「うかれさわぐこと」(広辞苑)の意味。浴衣一枚で気軽に参加でき、庶民が自由に踊れる魅力があった。

藍産業が発展するとともに、藍商人がスポンサーとなった組踊りはさらに規模の大きいものになり、衣裳や踊り方で競い合い、さらに華美なものになっていった。しかし幕末になると藩は質素倹約を突き詰めるようになり、組踊り禁止令を出して厳重に取り締まり、姿を消すことになる。

明治の踊り

幕末から明治元年にかけで大衆騒動「ええじゃないか」が大流行。明治政府が発足すると、踊りに対する取り締まりが厳しくなり、明治元年(1869年)と翌2年(1870年)は市街地ではあまり踊られることはなく、明治3年(1871年)は稲田騒動※3(淡路島が徳島から兵庫へ編入されるきっかけになったとされる事件)のため厳禁となった。そんななか、ようやく明治4年(1872年)に桟敷が復活。江戸時代の賑わいを徐々に取り戻すことになる。しかし、明治28年(1895年)の踊りはコレラのまん延によって中止。その後も県内の藍産業の衰退とともに徐々に勢いを弱めていった。

※3 稲田騒動
明治3年(1870年)に当時の徳島藩淡路洲本城下で洲本在住の蜂須賀家臣の武士が、筆頭家老稲田邦植の別邸や学問所などを襲った事件。結果的に淡路島の帰属をめぐる重要な事件となり、この事件の影響で淡路島は再び徳島県から離れ、兵庫県に編入された。

大正の踊り

明治から大正になっても踊りはしばらく衰退。ようやく盛り上がりをみせたのは大正4年(1915年)のこと。大正天皇即位の年で、富田町、内町、秋田町が賑わいをみせたとされている。この頃からお盆以外にも踊られるようになり、「阿波おどり」という名称が認知されるようになったとされている。

昭和の踊り

時代が昭和になると、本格的に観光化への道を歩みはじめる。当初は批判の声も多かったようだが、観光客の増加で次第に盛況になるにつれて新聞などでも大きく取り上げられるようになったようだ。しかし、その勢いも長くは続かない。太平洋戦争が勃発し、日本軍の後退が目立つようになると踊りの規模はみるみる縮小。昭和18年(1943年)には2日間踊りが許可されるものの、空襲に備えた灯火管制下であったため暗闇のなかでの行われたとされていて、詳細な情報もあまり残されていない。敗戦後に踊りが復活するのは、昭和21年(1946年)。食糧の配給量が絶対的に不足する貧しい時代ではあったが、再開初日から多くの人たちが踊り込み、その様子を進駐軍の兵士が物珍しげに見物していたとか。また、終戦の喜びにひたろうと見物人には徳島市内だけでなく、郡部からもどっと詰めかけたそう。こうした戦後の盛り上がりのなかで連が組織されるようになり、大規模な競演場も誕生。市内全域を流していた踊りから、競演場を中心とする傾向が強まった。また、この時代は踊りの審査も行われていて、今につながる踊りの個性が生まれた。昭和30年(1955年)には観覧場が復活し、県外からの見物客も増加。今の時代の阿波おどりの発展につながっている。

まとめ

調べてみると、約400年の長い歴史のなかで何度も阿波おどりは危機に陥っていた。それでも衰退することなく今の時代に至っているのは、どの時代の徳島県民も阿波おどりの「鮮烈な印象」に魅せられていたからに違いない。「やっぱり踊りはやめられない」のDNAは恐るべし。また、阿波おどりはさまざまな危機を乗り越え発展してきた歴史がある。コロナ禍の阿波おどり。未来に向けて何かが変わる夏になるかもしれない。

参考文献
●『三好記 下巻上』 福長済庵/著 徳島県立図書館/発行 1997年 
T209.5/ミヨ/6-3
●『阿波踊史研究』 三好昭一郎/著 徳島県教育印刷/発行 1998年 T385/ミヨ2
●『阿波踊り讃歌』 徳島ペンクラブ/編・発行 2012年 T385 /トク11/2

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